死刑執行人の苦悩 「休暇」
ぜひ観たいと思っていた映画を観てきました。
近くの劇場での上映が終了していたので、
有楽町まで追っかけていきました。
こういう映画は、もっと長い間上映してほしいものです。
「休暇」
死刑を執行する刑務官たちを描いた物語です。
1回の死刑執行で、10人近くもの刑務官が関わるのですね。
その一人、小林薫演じる平井は、
一週間の休暇を得るために、
死刑執行の「支え役」に自ら志願します。
「支え役」って何ですか?
新米刑務官の大塚(柏原収史)が無邪気に尋ねます。
首吊りになった死刑囚の身体が暴れるのを、
下で抱きとめて支える役目なのでした・・・。
死刑囚の生活と、ついに執行されるまでが
リアルに克明に描かれています。
それと同時に、勤めを果たして休暇を得た平井が、
新妻(大塚寧々)とその子供と、
新婚旅行に出かけるなごやかな風景とが
併行して描かれていきます。
法務大臣が変わってから死刑執行が激増している昨今、
ぜひ多くの人に一度見ておいてほしい映画です。
ふだん死刑制度のことなんて、
真剣に考えるような機会はなかなかないと思いますので。
私もそうでした。
生まれたときから死刑という制度はあって、
ものすごく悪い人はシケイになるんだ、子供心にそう思って、
それが普通だと思って大人になりました。
でも、この本を読んだとき、何かしら心に波紋が広がりました。
まさに、この映画で描かれているような内容です。
死刑執行に携わる刑務官たちは、
家族にもその仕事について話すことは許されず、
心に秘密を抱いたまま、どこかしら暗い毎日を送っている。
心から楽しい家族団らんもなく。
ごはんも心からおいしいとは感じられず。
子供がなつかなかったり、病気になったりすれば、
自分がこんな仕事をしているからだと考える。
どうして、こんなにもつらい仕事を押し付けられて、
明るい人生を台無しにされないといけないのか。
そんなことを押し付ける権利が、私たち国民や国家にあるのか。
そう思ったとき、「死刑制度っておかしいんじゃないか」
と考え始めました。
それからほかにも死刑に関する本を何冊か読んで、
映画も観て、死刑制度はなくすべき、
という気持ちは、今では確信へと変わっています。
そんな私だから、この映画で、
教誨師が聖書を手にしながら
死刑囚の金田(西島秀俊)に向かって、
「あなたは許されない罪を犯しました」
といったとき、
「この世に絶対許されない罪があるなんて、
イエス・キリストは言ってたっけ?」
と思いました。
そして、休暇欲しさに支え役を買って出た平井に
先輩刑務官(大杉漣)がぶつけた言葉
「人の命を何だと思ってるんだ!」
この言葉がグサッときました。
そうです、死刑を執行する刑務官こそが、
人の命の重みを誰よりも痛感しているのです。
殺人犯だろうとなんだろうと「人の命」に
変わりはないことを・・・。
最近、人の命が軽すぎですよ。
自殺、通り魔、親子殺人。
偶数月の死刑執行。
鳩山法務大臣が「死神」って批判されて怒っていたけど、
「法務大臣のハンコなしでも
どんどん死刑執行できるように
しちゃえばいいんじゃない?」
なんておバカ発言をしたような、
命の重みをまるで分かってない人なんか、
それぐらい批判されたってしょうがないと思う。
いろいろ書いてしまいましたが、
でもこの映画は、死刑制度の是非を
声高に問うような映画では決してないです。
平井がつらい任務を乗り越えて
新しい人生を築こうとする、
未来への希望も感じられる作品となっています。
最後に、この映画のクライマックスは、
実はショッキングな死刑執行のシーンではなくて、
その後、自分になつかない奥さんの連れ子を、
平井が抱きしめたあのシーンでしょう。
このシーンで、
「この映画はすごいなあ」と思ったことでした。
かなりの秀作ですよ。
いい役者がそろっていますし、脚本も演出も素晴らしい!
地方ではこれから公開されるところもあると思いますので、
機会があればぜひ!とおすすめしたいです。
「休暇」の映画詳細、映画館情報はこちら >>
<おまけ>
*そういえば感想をまだ書いていないけど、
死刑関連の映画をいくつかご紹介。
私たちの幸せな時間
カン・ドンウォン.イ・ナヨン, ソン・ヘソン

ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
ニコラス・ケイジ

デッドマン・ウォーキング
ティム・ロビンス

グリーンマイル
スティーブン・キング

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「休暇」
死刑を執行する刑務官たちを描いた物語です。
1回の死刑執行で、10人近くもの刑務官が関わるのですね。
その一人、小林薫演じる平井は、
一週間の休暇を得るために、
死刑執行の「支え役」に自ら志願します。
「支え役」って何ですか?
新米刑務官の大塚(柏原収史)が無邪気に尋ねます。
首吊りになった死刑囚の身体が暴れるのを、
下で抱きとめて支える役目なのでした・・・。
死刑囚の生活と、ついに執行されるまでが
リアルに克明に描かれています。
それと同時に、勤めを果たして休暇を得た平井が、
新妻(大塚寧々)とその子供と、
新婚旅行に出かけるなごやかな風景とが
併行して描かれていきます。
法務大臣が変わってから死刑執行が激増している昨今、
ぜひ多くの人に一度見ておいてほしい映画です。
ふだん死刑制度のことなんて、
真剣に考えるような機会はなかなかないと思いますので。
私もそうでした。
生まれたときから死刑という制度はあって、
ものすごく悪い人はシケイになるんだ、子供心にそう思って、
それが普通だと思って大人になりました。
でも、この本を読んだとき、何かしら心に波紋が広がりました。
![]() | 死刑執行人の苦悩 (角川文庫) 大塚 公子 角川書店 1993-07 by G-Tools |
まさに、この映画で描かれているような内容です。
死刑執行に携わる刑務官たちは、
家族にもその仕事について話すことは許されず、
心に秘密を抱いたまま、どこかしら暗い毎日を送っている。
心から楽しい家族団らんもなく。
ごはんも心からおいしいとは感じられず。
子供がなつかなかったり、病気になったりすれば、
自分がこんな仕事をしているからだと考える。
どうして、こんなにもつらい仕事を押し付けられて、
明るい人生を台無しにされないといけないのか。
そんなことを押し付ける権利が、私たち国民や国家にあるのか。
そう思ったとき、「死刑制度っておかしいんじゃないか」
と考え始めました。
それからほかにも死刑に関する本を何冊か読んで、
映画も観て、死刑制度はなくすべき、
という気持ちは、今では確信へと変わっています。
そんな私だから、この映画で、
教誨師が聖書を手にしながら
死刑囚の金田(西島秀俊)に向かって、
「あなたは許されない罪を犯しました」
といったとき、
「この世に絶対許されない罪があるなんて、
イエス・キリストは言ってたっけ?」
と思いました。
そして、休暇欲しさに支え役を買って出た平井に
先輩刑務官(大杉漣)がぶつけた言葉
「人の命を何だと思ってるんだ!」
この言葉がグサッときました。
そうです、死刑を執行する刑務官こそが、
人の命の重みを誰よりも痛感しているのです。
殺人犯だろうとなんだろうと「人の命」に
変わりはないことを・・・。
最近、人の命が軽すぎですよ。
自殺、通り魔、親子殺人。
偶数月の死刑執行。
鳩山法務大臣が「死神」って批判されて怒っていたけど、
「法務大臣のハンコなしでも
どんどん死刑執行できるように
しちゃえばいいんじゃない?」
なんておバカ発言をしたような、
命の重みをまるで分かってない人なんか、
それぐらい批判されたってしょうがないと思う。
いろいろ書いてしまいましたが、
でもこの映画は、死刑制度の是非を
声高に問うような映画では決してないです。
平井がつらい任務を乗り越えて
新しい人生を築こうとする、
未来への希望も感じられる作品となっています。
最後に、この映画のクライマックスは、
実はショッキングな死刑執行のシーンではなくて、
その後、自分になつかない奥さんの連れ子を、
平井が抱きしめたあのシーンでしょう。
このシーンで、
「この映画はすごいなあ」と思ったことでした。
かなりの秀作ですよ。
いい役者がそろっていますし、脚本も演出も素晴らしい!
地方ではこれから公開されるところもあると思いますので、
機会があればぜひ!とおすすめしたいです。

<おまけ>
*そういえば感想をまだ書いていないけど、
死刑関連の映画をいくつかご紹介。
私たちの幸せな時間
カン・ドンウォン.イ・ナヨン, ソン・ヘソン

ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
ニコラス・ケイジ

デッドマン・ウォーキング
ティム・ロビンス

グリーンマイル
スティーブン・キング

この記事へのコメント
国家は暴力装置だとは言え、殺人犯の命を奪うのも、やはり殺人だと言う事実には変わりがないのです。
どうしても死刑を執行するのなら、被害者の遺族とかが、希望するのであれば、手を下すべきかも。公務員とはいえ誰かの代理で命を奪うと言うのは酷です。
非情な殺人犯が現れると、国民一同「死刑にしろ!」という感情的な論調になりがちです。そうならないように、注意しているつもりですが・・・
被害者遺族が法廷で意見を述べることも認められるとなると、被害者遺族の涙ながらの訴えに、裁判員が死刑に一票を投じるという、まるで江戸のお白州みたいな前時代的な裁判の始まり始まりというわけか。とてもやってられない気分です。
「死刑執行があっても刑務官を希望します」という人が、たとえば3人しかいないから、日本の執行官は3人にしましょう、というわけにはいかないですよね。
仕事というのは必要だからあるわけで、
なり手がなければ、誰かが嫌々でもやらなければいけないわけです。
記事にあげた『死刑執行官の苦悩』の本にも、いやおうなく執行官の仕事に就かされた人が何人も出てきます。
「嫌だ嫌だと思いながらも、転職先など見つからず、当然拒否など出来ず、刑務官を辞めることも出来ず、しかたなく首に縄を掛ける役目を果たすことになった人たち」が現実にいるのです。
理不尽な仕事が存在するから、それをやらなければならない人がでてくるのです。「人を殺す仕事」は人道的にも、断じてなくすべきだと私は思います。
刑務官は、本人の意思で働くのですから嫌なら辞められる筈です。又処刑に係わる刑務官の仕事が理不尽だという理由は何でしょう。この仕事を無くす事は死刑を無くす事です。よく死刑の反対理由として、①死刑は犯罪抑止力にはならない②冤罪だったらどうする③長い服役の中で反省し、真人間になった人を殺せない
の三点が挙がりますが、特に③は刑務官の意見ですね。反省の日々を見続けた死刑囚を殺すのは辛いでしょう。でも、その人の反省度合は関係なく、その人が過去にどれだけ残虐に人を殺したかが問題なのです。また死刑は犯罪の抑止力になる必要はなく、あくまでも刑罰です。科学捜査が発達した現代に、もはや冤罪も皆無でしょう。死刑がある以上、刑務官は必要です。嫌なら刑務官は辞めるべきです。誇りをもってる刑務官も大勢いるのですから。死刑反対論者が意見を叫ぶ際に、刑務官を利用しているように思えます。嫌々人殺しをしている刑務官達はみんな辛いと言ってます。だから死刑はよくない・・・みたいに。
ぴむさんは、本当に真剣にこの問題を考えておられます。勉強になります。
そういう方と議論できることは私もうれしいです。さて、
嫌ならやめられるということについてですが、
世の中には人の嫌がる仕事というものがどうしても存在しますが、
そういう仕事は社会の下層にいる人々がやってきたのが歴史の真実です。その社会構造は現代もほとんど変わっていません。
この社会システムの中で、人の嫌がる仕事をやってくれる人に向かって「好きでやってるんだろう」というのは、強者の勝手な理論でしかありません。彼らは、誰かがやらなければならないからやっているんです。
また、冤罪は皆無なんてことはありえません。今「冤罪ファイル」という雑誌が書店で売れています。雑誌のホームページがありますので、検索してのぞいてみてください。
あと「それでもボクはやってない」という映画を観ても、日本の司法制度が実に冤罪を生みやすいシステムであることがわかります。このブログでも記事を書きました。このコメントのURL欄にリンクを張りますのでよかったらのぞいてください。って、宣伝になってしまいましたね。
ぴむさんとは、命の重さのベクトルが同じだですから安心して意見交換をさせて頂けます^^。
前回、誤解を招きかねない表現だったので補足しますが、刑務官=下層の人々ではないですね。刑務官は基本的に、受刑者の更正の手伝いをするのが本来の業務でしょう。やりがいのある立派な職業だと思います。
それが執行に当たってしまうと、受刑者を抹殺するという、本分とはまったく違う仕事をしなければなりません。
映画「休暇」の主人公は、休暇がほしいために執行役を買って出ます。それこそ「好きでやった」ように見えるし、先輩からは不謹慎だと怒られます。でもその休暇は、彼の人生の中でどうしても必要なものだったのです。やらないわけにはいかなかったのです。
自分は何の恨みも持っていない者を殺さなければならない。こんな悲しいつらいことを誰かにやらせる権利はお上にも国民にもありません。さらに、刑罰で人を殺すことは人道的に間違いだと、そしてそれは永遠不変の真理だと私は思っています。
命の重み、大切なことですよね。最近、命がとても軽く扱われていると感じます。なんとかしたいですよね。
殺された命にこだわり、重きを置いている私の考えは、確かに刑死する側の人の人命を軽視している事がよくわかりました。ぴむさんとの意見交換により気づかせて頂いた大きな一歩です。死刑の存続
は別として、現代の死刑自体がいまだ明治時代の監獄法に基づいている事の見直し、現代に照らした法整備は早急に必要だと思います。
死刑の代替としてよく言われるのは「仮釈放なしの終身刑」ということですね。
私も終身刑を設けるべきと思っていましたが、今は無期懲役でも30年以内に出てくることはないそうです。多くの無期囚が獄中で生涯を終えているらしく、実質的な終身刑が既に存在していると見てもよいという人もいます。
私は、殺人犯は刑務所に閉じ込めておけば他の人を傷つけることはできないから、社会的にはそれで十分だと考えます。被害者感情については、犯人が死刑になってスッキリ救われた気分になる人というのは、あまりいないのではないでしょうか。何をしても死んだ人は戻らないのだから、家族を失った心のケアは刑罰とは別にするべきだと思います。
生きてる限り、人間はよいほうに変われる可能性があると思います。被害者家族が本当に望んでいるのは、犯人が殺した人の命の重さに気づき、罪を悔い反省することだと思います。それを死刑という形で断ち切ってしまって、本当に被害者遺族のためになるでしょうか。もし私の愛する家族が殺されても、私は犯人が死刑になることは望みません。
よく考えてみてください。殺されてしまったあのかわいらしい奥さんと赤ちゃんが、天国で「パパ!絶対あの犯人を殺してね!」なんて言っているでしょうか。「パパ、もう一度幸せになって」それだけではないのでしょうか。それは私の勝手な想像でしょうか?
被害者遺族に必要なのは、少しでも安らかな気持ちと生活を取り戻すため、心のケアをするよきサポーターです。犯人を死刑にしてあげることではありません。
死刑賛成さんがこだわっておられる「殺人者には死を」という考えは応報論でしかありません。ひき逃げした人は刑罰として車で轢いてもいいか、人を刺した人は刑務官が刺してもいいかというと、そんなことを許す人は文明人ならいないでしょう。鋸引きや石打ちの刑がなくなったのと同様、死刑もなくすべきと考えるのは普通のことだと思います。
また、死刑になりたくて殺人を犯す人がいるのも問題です。小学生連続刺殺事件の宅間容疑者がそうでした。彼は控訴を取り下げ、望みどおり死刑になりました。それが刑罰でしょうか。
れませんし、もっと言うと、大切な親族を殺された遺族は、もはや安らぎなどは求めてなく(どう考えても安らげませんよね)、死刑で安らぎを得られるなどとは考えてはいないのです。仰るとおり応報論です。人の命を盗りっぱなしが、反省で許されてはたまりません。それに例に挙げられたような単純な応報が行われていますか?日本国という法治国家が刑法で定めた正式な法律と法手続きに則って、例外なく厳粛に行われています。鋸引きや石打は方法として淘汰・変遷しただけで、死刑自体はなくなっていません。現代の日本の叡知をもってして必要と判断されているからです。
宅間被告の件。控訴を取り下げようが、本人の望みどおりだろうが、彼の犯した重大犯罪に対して然るべきプロセスを経て導き出された死刑判決に基づき執行されたのですから、当然刑罰です。彼は死刑という刑罰によって処罰されたのです。望みどおりの死刑なら尚更問題なし。まあ、五右衛門が釜の中で「俺様は熱い風呂に入りたかったんだ」って強がってるのと同じですが。
(因みに控訴取り下げたということは一度は控訴したということ。もっと刑を軽くしろっていうことですね。やっぱり「僕は殺したけど僕のことは殺さないでね」って都合のいい考えを持つ死刑囚が多いんですね。まあ、そんな身勝手な人間だから無差別殺人なんか出来るんでしょうけれども。
テロへの報復を名目にイラク戦争が始まってしまったのは周知の通りです。報復というのは、止めなければならないことなのです。
また、たとえ複数の人を殺した凶悪犯でも生きる権利はあるし、「死にたくない」と思う権利があることも理解してほしいです。なぜならそれが、人間の基本的人権だからです。
人権は、人間なら誰にでも認められるべきものです。
なぜなら、条件付きで人権を剥奪してもいいのだったら、殺人者だからということの他に、「国に反逆したから」「奴隷だから」「女だから」どんな理由でも、その時代の価値観や状況等でなんとでもなってしまうからです。人権は、時代や状況に関わらず等しく人間に認められるべきもので、それがないと人間の平等と安心は保証されません。
とはいえ、まだ日本では死刑賛成さんのように「殺人犯死すべし」という気持ちをもっている人が多数派なのでしょうね。そういう気持ちは強いから、なかなか変わられないと思うけれど、
でもいつか、私のような考えが理解してもらえたならなあと思っています。
でも、ぴむさんと意見を交換できたことは私にとっては大きなプラスです。納得させられる反対意見なら、私の考えも変わり得ると思うし、何よりぴむさんが真剣に命をお考えになっていらっしゃるからです。存続にしても廃止にしても、現在の死刑制度は早急に見直しの必要な時期に来ています。死刑囚の生活、言い渡し、家族への連絡等、改善の必要は否めません。
最後に、もしご覧になっていらっしゃらなければ、大塚公子著『死刑囚最後の瞬間』と、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク(主演:ビョーク)』も是非ご覧下さい。
ぴむさん、ありがとうございました^^。
悪を殺すのは正義ではありません。
悪を悪で返しているだけです。
ダンサーインザダークは見ましたよ。
死刑になるのはいつも、知恵もお金もない人ばかりです。本当の悪人は何人殺しても死刑にはならない。社会のトップでセレブとして笑っていることでしょう。
先日「復讐するは我にあり」という古い映画を観ました。5人の人間をいとも簡単に殺した殺人鬼を緒方拳が演じています。
復讐するは我にあり、とは聖書にある言葉で、我とは神のこと。
なんじ復讐するなかれ。復讐は神の手にゆだねよ。
誰もが死刑になって当然と考える殺人鬼の物語に、なぜこのようなタイトルがついているのか。その答えはまだ見つかりません。
日本で死刑が停止される日は、
世界情勢から見て、私が思ったより遠くなさそうです。
こちらこそありがとう。
有意義な議論をこのページに残すことができたと思います。
加害者の人権を尊重すると被害者の人権が薄くなるということは、ないです。
人権はシーソーゲームではないので、どちらにも手厚くすることが可能です。
加害者にはやりすぎでない罰を。
被害者には、憎しみから開放される心のケアを。どちらも大切です。
だから私たちの意見は平行線なのではなく、たどりつく先は同じことを言っているのだと思います。もっと人権に配慮をと。
死刑が被害者の人権を保護することには決してなりません。むしろ逆です。
死刑を望んでいない被害者遺族もいるのに、その声を無視して国家権力で死刑は執行されてしまいます。
国家による殺人は止めなくてはなりません。それは実は加害者の人権も被害者の人権も、そして国民全員の人権をも脅かしているからです。